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2020-08

元最高幹部が明かす 「高倉健」と「山口組」の知られざる交流


元最高幹部が明かす 「高倉健」と「山口組」の知られざる交流
エンタメ週刊新潮 2015年5月21日号掲載

多くの伝説を残して世を去った俳優・高倉健(享年83)と、日本最大の暴力団には浅からぬ縁があった。「週刊新潮」では、没後半年にあたる2015年5月21日号で、ジャーナリスト・山川光彦氏の寄稿による高倉と山口組にまつわる数々の秘話を掲載した。昭和映画史の知られざる内幕をあらためてご紹介しよう――。(※データは本誌掲載時のもの)

 ***
 83年の生涯を「国民的映画俳優」として演じ切った高倉健(本名・小田剛一)が逝って半年が経つ。来る6月にも「八甲田山」「海峡」のロケでゆかりのある青森の県立美術館で異例の特集上映が予定されるなど、いまだその人気が衰えることはない。

 死去直後には、長嶋茂雄をはじめ各界からその死を悼む悼辞がよせられたのは記憶に新しい。だが、国民的スターへの哀悼の想いを胸に、その心中を表明する場を与えられなかった人たちもいる。

 裏社会の住人たちである。なかでも、実在のモデルに取材したヤクザ映画を量産した東映の看板スターだった高倉と、日本最大の暴力団組織・山口組の縁は浅からぬものがあった。

 当時を知る芸能関係者が解説する。

「東映入社後、しばらく芽が出なかった高倉健は、時代劇などで人気絶頂の美空ひばりらの相手役を務めることも多かった。ひばりの後見役が、山口組中興の祖・田岡一雄三代目だったのは周知の事実です。当時、田岡氏は日本有数の芸能プロ『神戸芸能社』を率い、ひばり以外にも鶴田浩二、清川虹子、ディック・ミネ、若山富三郎、伴淳三郎ら名だたるタレントと公私にわたる関係を築いていた」

 ひばりと大の仲良しだった江利チエミと高倉健は1959年に結婚。婚礼の宴には田岡氏も参列した。後年、田岡氏の令息である故・田岡満氏の結婚式には、寺島純子、梅宮辰夫らに混じって高倉の姿もあった。ヤクザと芸能人の垣根が今からは想像もできないほど低かった時代である。

 田岡三代目と高倉の宿縁については後述するが、もう一人、高倉健と終世にわたる厚情を交わした元親分がいる。

健さんの人間性の一端を知ってもらえるなら

 泣く子も黙る山口組の組織中枢メンバーである「舎弟頭補佐」として執行部の一翼を担い、六代目体制では、重鎮である「顧問」として活躍。2012年に引退した大石誉夫(たかお)氏である。

 愛媛・新居浜から岡山に進出した大石氏は地元組織との抗争を経て地盤を確立。山口組直参として大石組を旗揚げし、長らく西日本の要衝で、他団体に睨みを利かせてきた。武闘派の一面、経済界から芸能界にいたる幅広い人脈を築き上げ、「経済の大石」としてその名を知られた元大物親分だ。

 一線から身を引き、現在は都内で家族とひっそり余生を過ごしている大石氏こそ、田岡三代目亡き後もその衣鉢を継ぎ、高倉健との契りを交わしつづけた人物である。

 インタビューに答えた大石氏は言葉を慎重に選びながら、こう切り出した。

「元ヤクザ者の私が健さんとの関係を明かすことには少なからず躊躇があったことは確かです。まして、13年に文化勲章を受章して以降は私との交友歴が足を引っ張るのではないかと、なおさら神経を尖らせてきたものです。ですが、(没後半年を経て)総理大臣であれヤクザであれ、つきあう相手を肩書きで差別することがなかった健さんの人間性の一端を知ってもらえるなら私の証言も無駄ではないのではないかと、思いなおしたんです」

 2人の交友は、東京オリンピック前年の63年に遡る。翌年の大石組創設を控え昇竜の勢いにあった大石氏の新居祝いに、まだ任侠スターとして売り出す前の高倉がひょっこり顔を出したのだ。

 大石氏が述懐する。

「田岡親分の後を追うように興行に手を広げていた私に挨拶するように、興行関係者、もしくは田岡親分本人から勧めがあったのかもしれませんね。2歳違いと年齢も近く、あけっぴろげで物怖じしない健さんに、立場を超えていっぺんに魅せられました」

 一方の高倉も、大石氏の本拠・岡山周辺に撮影などの用がある度に訪ねてくるようになり、頻繁に親交を重ねることになった。

「健さんが宿泊するロケ地のホテルをその地の(山口組系)親分を通じて手配することもあった。あるとき、(愛媛県今治での)ロケが終わってホテルの自室に帰った健さんの部屋から悲鳴が聞こえてくるんです。それも“助けてくれ! 出してくれ!”って哀願するような声で、部屋の戸をドンドン叩いてね。いつもタレントにするように女性を部屋にあてがっただけなんですが、潔癖な健さんはまったく受け付けないんです」(大石氏)

 江利チエミと高倉健の揺るぎない夫婦愛をうかがわせる逸話ではあるまいか。

純金のお鈴

 スター然としたそぶりをみせない高倉と親分ぶらない大石氏は、ことのほかウマが合ったという。

 当時、映画のオールナイト興行にスターが足を運び、舞台に花を添えることがあった。高倉健も大石氏の地元の映画館の舞台に立ち、挨拶をすませたのだが……。

「せっかく生バンドの準備も揃っていたので、健さんに一曲披露してよと頼んだら、人前で歌を唱うことを極度に毛嫌いしていた健さんが『網走番外地』を唱ってくれました。それも1番を唱い終わったあと、まちがえてまた1番の歌詞を唱い始めた。歌の途中で気づいて、律儀にまた最初からやり直し。お客さんは大喝采でしたな」

 高倉健が初めてテレビコマーシャルに出たと話題を呼んだアサヒビールの出演交渉にも、大石氏の助力があった。

 東映のワンマン社長として名を馳せた大川博からの度重なる出演依頼にも、テレビ嫌いの高倉は首を縦にふらなかった。そこで、大川社長は懇意の大石氏に出演要請の仲介を依頼する。大石氏の意を尽くした説得に折れた高倉は、しぶしぶ出演を受け入れる。

「そのすぐあとに務め(服役)にいくことになった若い衆のために、健さんはギャラの一部を私の方に差し出した。映画出演での正当な報酬ではないとの想いからだったのか。これには私の方が面食らってさすがに遠慮しましたわ」(同)

 筋目を守り自らを律する高倉健の厳しさは、任侠界の重鎮を驚かせるに十分だったのだ。

 高倉は、礼節だけでなく信仰にも厚いことで知られ、比叡山延暦寺との関係はつとに有名である。

 だが、大石氏によると、出世作となった「網走番外地」のヒット祈願のために長野・善光寺に参拝して以来、高倉はゆかりの知人に、折に触れ、そのお札(ふだ)を送ることを習慣としていたという。

「毎年お札を送る十数人の郵送リストがあるんです。その返礼として、私の信心する香川・金刀比羅宮(ことひらぐう)のお札を健さんに送っていました」(同)

東京から岡山まで車を走らせ…

 もとより、芸能界は地方興行を通してヤクザと切っても切れない関係にあった時代で、高倉のみが山口組と浅からぬ縁をもったわけではない。

「芸能人の多くは、組織の庇護や個人的な後援といった実利的な理由から、親分衆とつきあうことが多かった」(前出の芸能関係者)

 人気稼業ゆえの苦労を、高倉とファンを二分した菅原文太も味わっていた。

 東映実録映画全盛の頃の目撃談を、元神戸芸能社関係者が明かす。

「神戸ポートピアの高級ホテルでのことです。東映実録映画の看板スターとなっていた菅原さんに酒席を共にさせようと、たまたまホテルの上階と下階に宿泊した山口組の大物幹部同士が取り合いになった。その幹部2人は山口組の若頭を争うほどのライバル関係にあり、ふだんから仲がよくなかった。“お前はあっちに挨拶せんでええ”と双方からスゴまれ窮地に陥った菅原さんは、“田岡親分の倅さん(前出の満氏)の用事があるもので……”と言って、急場を凌いだんです」

 他の俳優も大同小異、力のある極道者とのつきあいをおろそかにしなかった時代である。だが、当時、高倉だけはヤクザとのつきあいに一線を画していた。

 再び大石氏が口を開く。

「ことあるごとに“他の暴力団(員)を紹介しないでくださいよ”と言うんです。実利を求めず、精神的なつながりを重んじる健さんの姿勢は、並みいるタレントのなかでは極めてストイックでした」

 任侠の徒以上に筋目を重んじる高倉に、現職の方が唸らされることも一再ではなかった。

「健さんにもかわいがってもらった私の長男が客死した後のこと。私の不在中、東京から一人で車を走らせて突然、岡山の自宅を訪れた健さんは、特別に誂えさせた純金のお鈴(りん)を仏壇に供えて、長男のために焼香してくれたそうです。部屋住みがあっけにとられている間に、ものの10分たらずで元来た道を帰ってしまった。あとで見ると、お鈴の裏に私の家紋が刻まれていたんですよ」(同)

 所用で自宅を留守にしていた大石氏が部屋住みの急報を受け、電話で、「なぜ連絡をくれなかった」と問いただすと、「健さんは、“親分に会いに行ったんじゃない、自分の思いを届けたかっただけ”と」(同)

 11年に起きた「東日本大震災」の発生直後にも、安否を心配した高倉は、携帯用避難用具一式が詰まったリュックを抱えて大石氏の都内の自宅をひょっこり訪ねた。

「カタギで男が惚れる男として、健さん以上の人はおりませんな」

 元山口組最高幹部にそうまで言わしめる高倉と山口組の奇縁の原点は、大石氏の親分にあたる田岡三代目と高倉の出会いに端を発する。

生涯の恩義

 いまでは往時を知る関係者もほぼ全員が鬼籍に入(い)ったなか、2人の邂逅を知る貴重な証言者が実在する。ほかでもない、田岡氏の愛娘である田岡由伎(ゆき)氏である。

「父が健さんと知り合ったのは、ひばりさんと仲のよかった江利チエミさんを通じてだったと思います。後から聞いた話ですが、チエミさんとつきあいだした頃の健さんはまだヒット作に恵まれず、鳴かず飛ばずの時期でした」

 高倉の所属する東映の岡田茂(京都撮影所所長、のち東映会長)と田岡氏はひばりの映画出演を通じて肝胆相照らす仲だった。

 由伎氏が続ける。

「チエミさんに恋人の健さんを紹介された父は“大部屋にいたら一生、大部屋だ。スター、主役にしたらなあかん”と思ったのでしょう。岡田さんに声をかけ、高倉さんの売り出しに一役買い、それが出世作となる『日本侠客伝』(64年)製作へとつながったと聞いています」

 もとより東映本社の社史には記載のない秘話である。

 由伎氏の証言はさらに続く。

「それがきっかけで、健さんは父としょっちゅう会うようになったそうです。極道の着物の着方、ドスの持ち方から、日常の所作まで、父から実地で学ぼうと。健さんが(田岡邸のある)神戸にいらっしゃることも多かったし、父もたまに東映(京都撮影所)に行っていました。父が65年に入院したときも、健さんはよく病室に見舞いに訪ねてこられました」

 とすれば、任侠映画の立役者・高倉健の生みの親の一人が田岡氏だったことになる。筋目を重んじる高倉がそのことを生涯の恩義と感じたとしても不思議はない。田岡氏の半生をモデルにした実録任侠映画「山口組三代目」が73年、高倉主演で製作され、空前の大ヒットを記録するが、撮影に臨んでの意気込みを、高倉ははしなくもこう明かしていた。

「作品の人物にホレこむという映画は、ひさしぶりですから」

田岡氏への「離婚報告」

 前出の神戸芸能社関係者が明かす。

「山口組本部からも遠くない神戸の湊川神社で、健さんと(後の田岡夫人役の)松尾嘉代が若き日に将来を誓い合う重要なシーンの撮影に臨んだときのことです。健さんは撮影が終わるとその足で本家の田岡三代目を訪ね、付き人も遠ざけ親分の部屋で2人きりで、30分ほどでしたが、お互いをねぎらいあったんです」

 役者として、あるいはひとりの男としての転機に、高倉は田岡三代目との面会を求めていたフシがある。

 由伎氏も頷いて言う。

「チエミさんと離婚したとき、健さんはいきなりいらっしゃって、玄関の前に立って敷居をまたごうとしないんです。父が玄関まで迎えて、“どうした、あがれ”って言っても、“いや、あの、今日はこの敷居が高いです”と。事情を聞くと“(チエミと)離婚することになりました。すみません”と、最後まで軒先から上がらず帰ってしまった」

 常人からは窺い知れぬ絆で結ばれた“師弟関係”は、田岡三代目が没した後も、変わることがなかったようだ。

「81年に田岡さんが他界したとき、盛大に営まれた葬儀に健さんの姿はなかったんですが、その数日後、“高倉です”と電話が入った。近くの公衆電話からでした。単身、本家の門をくぐった健さんは持参した線香を手に田岡三代目の仏壇に向き合い、位牌に焼香したんです。その後も、命日に健さんから欠かさず線香が届きました」(田岡家関係者)

 由伎氏と高倉の交友もまた、高倉の死の直前まで続いた。

「(健さんとは)よく会う時期と手紙のやりとりだけのときも。その手紙に、『自分にとって役者とはなんだろうと悩んで、壁にぶつかっています。でも(田岡)親分から教えてもらった、人とは何か、男とは……、ということを考えていけば、ふと同じところにたどり着くんじゃないか……』と、そんなふうに書いてあるんです」(由伎氏)

 そして、彼女は昭和映画史の秘められた内幕についての証言をこう締めくくった。

「健さんは後年、私に“極道の世界をまったく知らない頃に、全部親分に教えてもらった”と言いましたが、玄関で敷居をまたがなかった態度も含めて、(住む世界は違っても)健さんは父から、人として男としての生き方、矜持を学んだのではないかと思うんです」

 虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。

 不世出の任侠映画スター高倉健は、裏社会のドンとして君臨した田岡氏が精魂を込めた形見、だったのかもしれない。

㊟もう知っても得にもならない話。東映京都の撮影所は一般人は関係者の紹介が無ければ入れない。しかし、守衛に手を上げるだけでフリーパスなのがヤクザだった。それを私に皮肉られて苦虫を噛み潰した幹部も。

 言いたくもなる。何故なら,門を入った直ぐ右の建物の一階に、藤純子の父で裏社の顔役でいながらヤクザ映画のプロデューサー〇〇○○の事務所があるのだから、、、


面白い話をしよう。 某少年人気アイドルが初めて時代劇『暴れん坊将軍』にレギュラー入りした時だ、朝から入口にアイドルファンが10数人も集まり、これには東映も驚いたようだ。


 髪結いで初めてカツラを付けると、注目して集まっていた関係者から、

「こりゃ綺麗だ!!」

「ほう~そのまま沖田荘士でいける!」

「将来の助さん間違いない!」
 
等々の声が上がり、その気品ある美少年ぶりは評判となった。これが東映のスター役者にあっという間に広まり、ピリピリしていたのだが、それを知ったのはもう少し後になってから。

 ただ、気になったのは、監督が美少年をやたらアップ撮りしていたようで、「大ちゃんアップ、健さんナメ」の声が何度か耳に。しかし、私もアイドルもアップは分かったが、ナメという意味が分からなかった。

 途中、松平健が、レギュラーの脇役数人に囲まれて、

「誰が主役だ!」

と吐いた言葉が聴こえたので、ああ、監督は美少年アイドルを売り出そうとしているのか、とは感じた。


 そして数日後、美少年が夜のスタジオで撮影中、小指を詰めて包帯に血を滲ませたヤクザが入って来た。監督も助監督も「出て行け」も言わない。

 そのヤクザ、いきなりアイドルに近づき、「撮影終わったら食事に付き合ってくれ」と言い出した。


 側に居た私に、


「この後も仕事です。時間はありません!」


 と撥ねつけられると睨みつけたが貫録敗けか黙って出て行った。が、まさか撮影現場に指を詰めたばかりのヤクザが来るとは。。。しかもそれが美少年アイドル呼び出し目的と。。。このヤクザ、傍に鬼が付いていると思わなかったようで、以降は誘い来ず。私の顔がそんなに怖いか?

 

 勝新太郎の兄、若山富三郎も山口組「加茂田一家」の盃を貰って威張っていたな。やはり、私に、しかも直接でなくスタッフを動かし因縁を付けて来た事があった。当時、大物俳優と呼ばれていた時代だ。放って置いたらまたスタッフが来て、


「黙って謝って下さい」

 だ。こりゃスタッフが可愛そうと、その足で若山の部屋に、


「何の用があるんですか!」


 と顔を出すと、下を向いて沈黙。。。相当怖かったようだ。今度は、「若山さんはもういいって」とまたスタッフから。。。そんなに鬼神の顔が怖いか?

 ところが若山のヤツ,京都の東映で自分のメンツが潰されたと思ったのか、数年後、自分の所属する長良事務所の長良淳から


「正ちゃん頼むよ。若山と揉めないでよ」


と電話が入った。バカ丸出しで嗤いました。


 今は亡き川谷拓三くんも若山富には怒っていたな。彼が脇役の頃、若山は、


「お前みたいな汚い顔をオレの前に出すな!」


 と履いていた下駄で頭を殴りつけたんだと。血が出てもスタッフも知らん顔だったと。。こんな話を聞くと締め上げたくなるのが親分の血を引く私でした。



 生意気だった松方弘樹も京都の繁華街で暴力団に焼きをぶち込まれ、上半身テーピングだらけにして撮影所に来ていたこともあった。こいつも根性が女々しく、前述のアイドルがあまりに綺麗なのに嫉妬して陰口を叩き嫌がらせをしてくれた。


 数年後、テレ東の松方主演の「大江戸捜査網」にこのアイドルがゲスト主演。松方は神経ピリピリだったようで、後に、担当プロディーサーと六本木で食事中、


「いや、〇ちゃんをゲストにしたときの松方の機嫌の悪さは大変だった。次の撮影の時も機嫌が悪いんだもの」

と、つくづく参ったと大笑いしたが。



 里見浩太朗も優しい顔していながらやはりこのアイドルに助さん役を奪われると思ったか、いろんな妨害をしてきた。里見さん、今でも記憶してますよ。そんなだから息子の佐野君は売れなかったんですよ。


案の定、里見氏が水戸黄門になる情報が流れると、そのアイドルに「助さん」役の打診があり、京都まで出向いて「水戸黄門」の逸見プロデューサーに「お断りします」と宣言。

 こんなこと出来るヤツも珍しいのかも。


松平健は両刀遣いの勝新太郎にゲイを仕込まれた結果、オネエさまに。暴れん坊時代、レギュラー入りしたこの美少年アイドルに目を付け、プロデュースから「松平が食事を」の誘い。

勿論、私が連れて出向くと、まさか事務所の社長が一緒にくるとは!という顔で、会話ゼロ。口説けなくてガッカリしたようだ。もちろん、そのアイドルは男なんか相手にしないのだが。


 京都東映撮影所では男、女に弄ばれて潰れた有望な新人は多いことを東京本社のプロデューサーから耳にしていたが事実だった。


ま、東映も私が撮影所に入る前に、事前情報かなんかで「渡邉正次郎はヤバそう」と掴んではいたが。経歴や父親が『山口組』三代目、田岡一雄氏と五分兄弟だった事まで掴んではいなかった(もちろん、この時は私も知らなかった)から注意が流されていなかったようだが、私の醸し出す雰囲気がタダものじゃなかったのか、誰も夜の誘いをかけなくなり、嫌がらせは陰でするように、、、言葉は悪いが女の腐ったようなスターが多かったね。


高倉健は見上げる大スターだった。が、大部屋俳優当時に、ベテラン男性役者たちに弄ばれ、女嫌いに(あの大スター、石原裕次郎も真正ゲイだが)、。しかし、高倉健、石原裕次郎のお二人は人間的には素晴らしいモノを持っていた。だから、いまでも尊敬されるのだ。私もそうなろう、、、無理です。男にも口説かれないし。口説かれると途端に嫌になるし。

 江利チエミと結婚したが。。。「抱いてくれないってチエミが泣くのよ」と、青山のすし屋でご一緒した清川虹子さんから打ち明けられたことがあったなぁ。

 そう、裕次郎の奥さん、北原三枝さんも、

「裕さんは私を抱いてくれない」

 と某映画会社社長を前に涙したことが。(知り過ぎ男,尻ではありまっせん)


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プロフィール

長官官房

Author:長官官房
渡邉 正次郎(わたなべ しょうじろう).
政治ジャーナリスト・作家
レコードヒットチャート編集長を経て、衆議院議員小峰柳多秘書、参議院議員迫水久常秘書となり、多くの政治家の選挙参謀として活躍。現在、政治・社会評論、講演の傍ら、何人もの政治家ブレーンとして『国会質問、演説原稿』等を依頼され、選挙参謀としても活動し、全員当選させている。.
 99年の東京知事選で石原慎太郎を担ぎ出させ、最後に名乗りを挙げさせる。投票日昼に「石原は165万票で当選」とマスコミ取材に応え、組織を持たない石原の票読みを的中させ驚かせた。また、オウム真理教の看板男、上佑史浩が「数百人のジャーナリストとお会いし、唯一人信じられたのは渡邉先生です」と、逮捕の日に身元引受人を依頼したことはメディアに大きく取り上げられた。.
 また、参議院議員迫水久常秘書当時、全国の暴走族を大同団結させ、『関東連合を』設立、初代最高顧問として抗争事件を起させぬよう指導した。この当時の教え子たちは現在、地方議会、大企業、役人として活躍しており、現在も彼らは情報を提供してくれている。もちろん、闇社会にも教え子は多く、彼らは組織の大幹部、親分ではあるが、今も関東連合初代最高顧問として熱い尊敬を受けている。.
.
議員生活約30年の小泉元首相“議員立法”一本もなし!が、一民間人の政治ジャーナリスト・作家の渡邉正次郎が発案、または改正させた法律(順不同).
.
*動物愛護管理法の改正.
《ペット飼育者のペット放置、殺害の多さをレビ報道で知り、『重い刑事罰に』、.
と武山百合子議員に国会で提案させ議員立法で改正を実現。今後はペットを金儲.
けに繁殖させるブリーダーや販売業者の取り締まりもより厳しくなる。<動物愛.
護管理法は明治時代に施行。このときまで一度も改正されず>》 .
.
*団体規制法(国家転覆を図った団体を取り締まる).
《オウムに破防法適用を政府が決定。が、5人の公安審査会で否決(委員に破防.
法絶対反対を組織決定している極左弁護士3名。)され激怒。武山百合子議員か.
ら国会質問作成を依頼されたことをチャンスに、衆議院予算委員会分科会で、.
「国家転覆を狙ったオウム真理教に破壊活動防止法を適用できないならば、それ.
に替わる法律を作るのが国家の義務」と質問。.
松浦功法務大臣が「素晴しい質問で、即議員立法ででも」と答弁。議員立法で成立。同時に「公安審査会の委員に破防法絶対反対の極左弁護士三名はおかしいのではないか」の質問も。以降、弁護士を2名に減》.
.
*NPO法.
《河村たかし現名古屋市長が現役代議士時代に発案法律。が、当時の大蔵官僚が.
“金を集めるのは大蔵省以外許さない”と自民党議員らに逆陳情し、廃案にされ.
る寸前に河村議員から相談され、素晴しい法案なので親しい自民党議員たちを半.
分脅し継続審議に持ち込み、次の国会で成立》.
*個人情報保護法.
《武富士顧問当時、「同業者の消費者金融Pがブラックリスト(返済がない悪質なもの)を闇金融に売り飛ばしているので、取り締まって欲しい」と依頼を受け、河村たかし議員に持ち込む。議員室に大蔵省役人を呼んで『取り締まるように』と指示すると、「取り締まる法律がない」と。ならばと河村議員を法案筆頭提案者で議員立法で成立》

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