Taさんへ。人種差別のひどいバンクーバーでよく頑張りましたね!!
私の最初のブログ「渡邉正次郎のNEWS TODAY」(現在は「正次郎のNEWSTODAY」を開設してくれた若者も、偶然にもバンク―バーに留学していたそうです。
13年ほど前、私の地元目黒区(渋谷、目黒で65年)から私が区議に担ぎ出し当選させた須藤甚一郎氏が、
「正次郎さん、ブログやったほうがいいよ」
と半ば強引に始めさせたのですが、そのすべてをやってくれたのもその若者でした。タイトルまで決めて来て。ま、須藤氏は芸能レポーターの当時も強引でしたが…。
須藤の初立候補は今でも強烈な思い出です。
「これから選管に行ってくる」と須藤氏から朝早く電話。あ、そう、だけで昨夜の二日酔いを覚まそう?と迎え酒をしてまたベッドに。
外で私の名前を呼ぶ声で目が覚め、ベッドで寝たままで、出勤し、掃除をしている男性秘書に、
―オイ、誰か俺の名前を呼んでいるじゃないのか?
に、
「呼んでますよ」
聴こえていても起こそうとしなかったようだ。
―誰が?
「須藤甚一郎さんです」
この間も、私を呼ぶスピーカーの音が聴こえる。何が起きているのか?
窓を開けると、なんとまあ、目黒通りの私のマンション向かい側の城南信用金庫の前の歩道橋の下に宣伝カーを停め、タスキをかけた須藤が道路に立ち、私のマンションに向かって、
「渡邉正次郎先生。渡邉先生にご推薦いただきました須藤甚一郎でございます。ただいま立候補の届け出を終えて参りました。渡邉正次郎先生、ご推薦、ありがとうございます」
と繰り返している。
私も何十人もの政治家の選挙参謀をし、色んな候補を見てきたが、地元とは言え、朝早くからマイクで名前をバンバン呼ばれたのは初めてだ。
須藤氏は芸能ワイドショーでは名は売れていたが、目黒では全くの無名。
当時、私は「夕刊フジ」や「週刊女性」「政界往来」で連載を持ち、言いたい事をズバッズバッと書いており、当時大人気の田中真紀子初当選と同時にダイヤモンド社から『田中真紀子が翔ぶ』を発刊し、
次いで当時、一種のスターだったあのオウム真理教の上祐史浩を独占インタビューし『亡国日本に咲いた芥子の花・上祐史浩』(鹿砦社)を発刊して、著書の新聞広告やテレビ出演で知られており、愛犬の『モウ』の朝昼晩の散歩で地元でも有名人で、警察でもVIP扱いだったからからだが(現在もV)。
須藤は私の顔を見るまで止めようとしない。しょうがないからマンションを出て、須藤に向かってマイクより大きな声(本当に大きいんです)で、
「隣のジョナサン(ファミレス)に入れ!」
と。そこでその若者と初めて顔合わせしただけ。
これが毎日、選挙が終わるまで繰り返されたんだから堪らない。
話を戻します、ブログを開設してくれた若者が私の事務所で手ほどきをしながら、私が毎年11年間、年末にから新年にかけてN・Yに遊びに行っているのを知った若者が、何気なく言った、
「正次郎先生、カナダの人種差別はひどいですよ」
の言葉を思い出しました。
そして、昨年の四月の統一地方選でも、公示前日に須藤から、
『明日、応援演説で自由が丘に10時半に来て』
と電話、
「雨降ったら行かない」
統一選の四月は雨が多いのを知り尽くしているから断ろうしたのだ。
翌日、公示日朝早く、
『今日は晴れ!俺、これから届出してくるから10時半には自由が丘で第一声できると思う。頼むね』
と須藤から天気予報まで言って、私が必ず来ると決め込んだ電話。
10時に自由が丘に着くと、すでに須藤がマイクを握っている。その姿を同時中継カメラで追っているのが、ブログ開設してくれたあの若者だ。すっかりおじさんスタイル。
須藤のいきなりの私を紹介するマイクで、若者は、
「ご無沙汰です」
と小さく囁き、カメラを私に向けてきた。
顔と大違いのドスの効いた私の第一声が始まった。途端に、道行く人たちの足が止まり、気が付くとおまわり三人が飛び出して交番前で直立不動している。
警官三人は私がVIPなのを知っていて、しかもその迫力に身動きが取れなくなっているのが分かった。
結果、須藤氏は75歳でありながら2位に4000票の差を付けてのダントツ一位を飾った。
私は寒がりなのでカナダは行ったことがないです(そのくせ年末からN・Yに11年間も行って木枯らしの吹きすさぶ街を歩いていたんですから変わっています)。ですが、人種差別がアメリカ以上だとは知りませんでした。
いまやカナダも蛆虫中国人がはびこり、白人たちも困り果てているようですね。今日も東京もさぶいです。春よ来い。早く来いです。
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