亀、あそみさんへ
亀、あそみさんへ
私と亀さん。あみそさんがネット、しかも私のブログで知り合い、こうして文通するようになったのも、何かが結び付けたか(私は空海かと)、私の一風変わった性格のせいかなと思い、長文を綴りました。
空海が私に乗り移ったようになり、怖い予言を告げたのも私の感受性の強さか、空海を庇護した嵯峨天皇の皇子で臣下にくだり、嵯峨源氏となった融(トオル)皇子の四代目の孫、源綱(渡邉綱)の直系と、そんな運命を持って生まれたのかと。。。
<後に真言宗総本山「東寺」が関東一円の末寺の過去帳を調べさせ、
「渡邉家は嵯峨天皇の皇子(トオル)が遠祖。融の四代目の孫、源綱(渡邉綱)が渡邉家の開祖であり、正次郎はその三十七代目。融からだと四十四代目となる>を正式文書として送られてきました。
本論です。
変わっているとこは後で述べますが、子ども時代から人を疑うことをしない性格で、大人になってもそれは変わりません。ただ、会って嫌な人には「あなたは性格悪いですね」と平気で言う男でした。
余りにも人を疑わないのを知った住吉会の副会長の塩沢四郎(私がオリコンから独立。新橋の木造建物の二階に会社を設立。三階が有名な右翼の大物、武井日進氏の事務所だったのです。木造で、夏は窓を開け放っていましたから、私の大声が上まで聴こえていたようです。)
話が前後します。
私がこの事務所の留守番さんに、武井日進氏に引き合わされ、武井氏から、
「君は将来、何になりたいんだ?」
と問われ、
「総理大臣です!」
「よし!気に入った。塩沢君、渡邉クンのガードをやってくれ」
(武井日進氏は佐藤栄作総理、池田隼人総理のボディガードだったんだそうです)」
となったのです。それから数か月後、三階に来た、塩沢親分から呼ばれ、
「渡邉、お前は人を疑う事を知らない男だな」
といきなり。
「人なんて疑うもんじゃないですよ」
「バカ野郎、この世の中に信じちゃいけないのが三種いるんだ」
「なんですか、その三種って?」
「政治家とヤクザと警察だ!」
「あなたはヤクザの大親分じゃないですか?
「バカ野郎、ほんとに、おれはお前を騙さんが、、、まったく呆れた野郎だ」
と、ヤクザに人生訓を教わったんです。
この親分、私のガードマンになって間もなく、私を小岩というとこの自分の自宅に呼んで直系の若い衆を5,60人集め、
「オイ、おめぇら、そこにいるのは音楽評論家の渡邉正次郎だ。おめぇら渡邉正次郎に喧嘩売るな。ヤクザぶっ飛ぶぞ」
こんな呆れた紹介をしたんですよ。後で、文句を言いましたが。
それでも人を疑う事は今でもまったくしません。出来ないんです。これは台東区一の資産家の一人息子で、祖母が創業した土木建設請負業「大羽組」の二代目の父、とそっくりのようです。祖母の会社は当時の「熊谷組」や「鹿島組」が太刀打ちできない勢力だったそうです。
父も800人から1000人も労働者を抱えている二代目社長でありながら、まったく人を疑う事をしない人だったそうです。ですから、私が物心つく頃、多くの人の保証人になったり、お金を貸しても返せと言わず、会社を潰してしまったのだと。
これは30歳近く歳の離れ、京都に住む長姉が、私がオウム真理教の上祐史浩の身元引受人になったのをテレビで知ったのか、
「あなたはお父様そっくりや。人の面倒ばかりみて、、、お父様はぼんぼん育ちで、、、若いとき、山口組三代目の田岡一雄さんと、浅草の古い博徒の「高橋組」の初代親分と三人五分兄弟の盃交わしたんよ。でも間違わんといて、お父様はヤクザと違う、立派な堅気や。お父様の従姉は近衛騎兵やったしな」
の手紙を貰ったのが本を書き始めた40代になってからです。
今も人を疑うことはしません。出来ないんです。子どものままのところが。。。ですから秘書時代、それ以降も稼ぎに稼いだカネは数億ですが、みんな(民族運動の連中や、秘書時代の先輩、普通の友人ら)に貸して、返せとも言わず、父と同じにすべてゼロに。。。
また、政治家の秘書になる前、まだ二十代後半なのに、歌舞伎町、区役所通りを遊びまくりましたが、ヤクザものたちと出会うと、彼らは不思議と私を避けるのです。これは今も変わりません。どうも眼光が相当怖いらしいです。自分では優しい顔と思っているんですが。。。
ですから、日本一のお笑い芸人、三波伸介と親しくなり、毎晩のように或るスナックで会うと、
「正次郎は区役所通りの夜の帝王」
と呼んだのです。
確かに、歌舞伎町、区役所通りに車を停めて、飲み歩いているのに警察は私の車だけは絶対に持って行かないんです。いつも昼過ぎに車を取に行くと、区役所通りのお茶漬け屋のおばあちゃんが、
「アレ?先生、こんな時間にどうしたの?」
「いや、車とりに来たんだ」
「あの車先生の車なの。私腹立ててたのよ。あの車だけ絶対持っていかないから」
こんな事を言われるほど遊んでいたんです。
こんな男だから、空海が天から見て、本を書かせたのではと。。。。そして、亀さん、あそみさんがコンタクトをくださったのも天が動き、「お前たち手を組んで世を変えよ」と導いたのではと。。。。
長くなりました。ごめんなさい。
渡邉正次郎が変わっているのは、幼い頃から、感性というか霊感が働く子で、「あのちとちぬ」(あの人死ぬ)とかを口にして、母に「一言多い子」と尻を叩かれ、子守のお姉さんに背負われながら、余計な事を口にし、「一言多い坊ちゃん」とあやされていました。
やがて学業を終え、東京新橋にあった手広く飲食業(大阪本社でパチンコと飲食業)の「近畿産業」社長秘書に就職。この社長の娘が歌手志望で、遠藤実歌謡スタジオの二階のアパートで自殺。これに怒った社長が山口組若頭と兄弟分であったことから、山口組の連中がおじきの敵討ちだと「遠藤実、千昌夫を殺す」と動き出し、大騒ぎに。これを必死に止めたのが私です。ですから、千昌夫と遠藤実は私が命の恩人なんです。
この社長が大阪本社秘書で大阪に連れて行かれたのですが、チャキチャキの浅草生まれで、大阪大嫌いで逃げて東京へ。そして「国際ニュース」記者見習いを、、、そこの専務と一緒に「オリコン」を創立。
そして編集長当時、発売3カ月前の各社の全試聴曲を聴き、「売れる。売れない」と直感が働いた曲名を、ヒット予想ページに掲載。これがことごとく的中し、レコード店はその予想ページを見て仕入れし、TVの歌番プロデューサーらもその予想ページを見て、出演者を先物買いで出演させ、自分の力を誇示する時代が続きました。これで私のヒット予想に全レコード会社が震え上がったのです。
全員が、
「渡邉正次郎のヒット予想は100発百中」と。
そして歌手では藤圭子、ちあきなおみ、カルメンマキ、五木ひろし、山本リンダ、キングトーンズらを発掘。私のヒット予想で大歌手になれたのは数知れずです。
政治の世界に転じて、迫水親父の代理で選挙応援演説に行かされた候補を悉く当選させ、親父が死去した後もジャーナリスト・作家として何人もの議員から応援を頼まれ、全員当選させ、議員顧問、相談役、選挙参謀として国会質問、演説原稿等を引き受け、「党から質問を割り振られたんですが、何を質問していいか、分りません」という議員に、幾つかの質問を考え、立法させたのが「団体規制法」です。
「団体規制法」はオウム真理教に破壊活動防止法を促すために、私は村山首相の野坂官房長官と会い、
「私は上祐史浩の身元引受人です。その私がオウムに破壊活動防止法適用をいうんです」
と説得。遂に破防法成立当時、身体を張って反対した社会党の村山富市総理が、「オウムに破防法適用を」と決断したのです。
ところが、これを審査する公安審査会で否決され、適用できなくなり、これに怒った私が、動物愛護管理法を成立させた女性議員から、予算委員会分科会での国会質問作成を依頼されたチャンスを利用して(女性議員はオウムを怖がって説得するのが大変でした)、
「オウム真理教は国家転覆を狙ったのは間違いありません。そのオウム真理教に破壊活動防止法が適用できないならば、それに代わる法律を作るのが私たち国会議員と国会の義務ではありませんか?」
と質問させ、
即座に立ち上がった松浦功法務大臣が、
「その通りです。議員立法ででも」
と答弁。素早い動きで「団体規制法」が成立したのです。
この女性議員、新進党だったのですが、質問の後、野中広務議員と中山正輝議員から、
「あなた素晴らしい質問をしてくれた。是非、自民党に来てくれませんか?」
と誘われて困ったと。笑って報告してくれました。
また、初当選の女性議員に議員立法「動物愛護管理法」させ、次に「NPO法」「団体規制法」「個人情報保護法」を立法させました。一民間人として前代未聞のことだと思います。動物愛護管理法の時、厚労省からの報告で、昭和の始めにできた「動物管理法」というのあって、私が動き出すまで、国家議員の誰一人も改正していなかったのです。
また、私生活では「人間が育てられない」と獣医が言う、生まれたばかりの臍の緒が付いて、目の開いていない子犬と、ヨチヨチ歩きの子猫を育てあげたり、自閉症で家族とも一言も言葉を交わさない登校拒否の少年と出会ったら、向こうから話しかけて来て、自閉症が治ってしまうのです。
もう随分前ですが、名古屋の友人に誘われ、友人が「ハワイで買ったヨットに乗らない?」の誘いを受け、知多半島のヨットハーバーに(私は泳げないから本当は行きたくなかった)。
そのハーバーに浮かんだヨットを見ていると、ジーンズの上下を着て、キャップを目深に被った若者が立ち泳ぎで(これにも驚きました)ヨットのボディを洗っているんです。
見ている私の傍に友人が来て、
「先生、あの子には参っているんです。自閉症で、、お母さんに頼まれて預かったんですが、もう一週間になるのにクルーの連中とも一言も口を利かないんです…」
そしてその日、ヨットで海原に、、、途中、小さな入り江にヨットを係留。みんな海に飛び込んでいましたが、私はダメなので海水パンツでヨットの端に腰かけたまま。足をぶらぶら。
しばらくすると、あの自閉症の子が泳ぎながら近づいて来て、私の赤い膝を見て、
「膝痛くないですか?」
「うん。いまは痛くないけど後で痛くなるかな…」
とだけ会話。これも不思議です。一週間もハーバーに居ながら誰一人とも口を利かない少年です。その子が話しかけて来たのです。
この後、ヨットでクルーの作った冷や麦を食べ「大変美味しかったあぁ」と大声で。友人も大喜び。
そしてヨットがハーバーに向かい出すと、その少年がヨットの甲板で俯せで缶ビールを飲んでいる私の横に腹ばいになり、
「先生ってなんの先生ですか?」
「…少し誤魔化して、、、、絵を描いているんだ」
彼に缶ビールの口を当てて、『飲め』と、一口飲んで私に缶を戻したとき、
「君は学校に行っていないんだって?」
「うん」
「家族とも口をきかないんだって?」
「うん」
その時、「拓哉~」と呼ぶクルーの声。私の傍から飛び起きた少年は走り出してヨットの帆を上げに。暫くするとまた少年は私の傍で腹ばいに。周囲に見えないようにビールをちょこっと飲ませてあげる。
「高校時代が一番友達が出来るんだぞ。親友もな」
「…」
「友達ほしくないのか?」
「・・・ほしい」
またここで「たくゃ~」とクルーの声。。。走って行った少年は、やはり帆の方向を変えている。終わるとまた、私の傍に走って来て腹ばいに。。
。
「先生は友達いる?」
「いるよ。でも大人になるとなかなか本当の友達はできないな。大学時代より中学、高校時代が一番だな」
「・・・」
この時はこんな話で終わった。ハーバーに戻ると、友人が、
「渡邉先生、何であの子と話せたんですか?」
「向こうから話しかけてきたんだよ」
「・・・・」
夜になると、友人の仲間が車で30人ほど集まりバーベキューの始まり。私は来賓扱いでしたが、自閉症の拓哉がいるために、焼き物係りになり、「ハイ、拓哉、一番若いんだから手伝って」と強引に私の前に立たせ焼き物係りをやらせた。拓哉は嫌がらずせっせと。
「拓哉も食べなきゃダメだろ」
「・・・」
と自分の分を紙皿に大目に取ってやる。拓哉は一心不乱にバーベキューをやりながらも、私が話しかけても、私以外の人がいるせいか一言も話さない。
やがてバーベキューが終わり、、全員が海辺でアルコールを手に歓談、、、見も知らない婦人が、
「あなたはよくあの子(拓哉を知っていて自閉症なのも知っているらしい)と話せますね」
「あ、拓哉から話しかけてきたんですよ」
「エッ、、、」
「ところで拓哉いませんね。探してきます」
とクルー達が寝泊まりする建物、その周辺で「たくやー、先生だ。どこにいる?」と呼んでも返事なし。
ふと気付いてヨットに向かい、甲板下の部屋に、、、そこにもいない。もう一度大きな声で「タクヤ―、花火大会だぞ。君がやらなくてどうする」と呼ぶと、側面の戸が開き、拓哉が出て来た。一人閉じ籠っていたのだ。
不貞腐れた顔なのに、手に大きなバックを持っていて真ん中のテーブルにバックを載せると、自分でジッパーを引き、カバンを開けた。
中はいろんな花火がびっしり。。。
「何だ、花火持って来たんじゃないか。さ、行こう、みんな花火大会を待っているんだぞ」
と。二人でヨットから出ると、大きな声で、
「皆さ~ん、これから拓哉が花火をやります。拍手で迎えてください」
全員が一斉に拍手拍手。
後、拓哉は一人で海に向かって次々花火を打ち上げた。その度に拍手拍手。その時も、また知らない女性が、
「あなた、あの子の心をよく開きましたねぇ」
と。。。。花火が終わり、私と拓哉たちは別々の処に。別れる前に拓哉に、
「明日、東京に帰らなきゃならない。電話するから家の電話番号を教えろ。電話するから」
と聞いてから、名刺を渡す。寂しそうな顔の拓哉。
そして翌日、私と東京から一緒の友人を迎えに来ているクルーザーの待つ波止場までヨットで送ってもらった。
岸壁から迎えのクルーザーに移ると、岸壁の人達全員が別れの手を大きく振る。拓哉を見ると、腰に手をあて、小さく振っている。誰にも見られたくないのだ。私だけに振っているのだ。私もわざと腰に手をあて手を振る。。。。
帰りのヨットで、東京からの友人に、
「なんで自閉症の子が僕に話しかけてきたのかな?」
と訊ねると、友人のヤツ、
「あなたが子どもだからだよ」
「・・・」
帰宅して三日後の夕方、名古屋の拓哉の家に電話を。
「東京の渡邉と申しますが、拓哉君は?」
電話に出た母らしき女性が、
「えっ、東京の渡邉先生ですか?」
「ハイ」
「先生、拓哉部活で、、間もなく帰ってきます」
この一言で、学校に行き始めた、と安心。
「先生、ヨットハーバーから帰って来た拓哉が、家に飛び込んでくると、「お母さん。おれ、友達できたよ~」って。良かったね。いくつくらいなの?って言ったら、50か60かなって。拓哉、50か60の人を友達って言わないのよ」って話してたんです。いまは学校に行くようになって、、、ありがとうございました。ありがとうございました」
と泣かんばかり。
割愛。この少年、遂に大学まで。。。そして東京の友達のとこに遊びに来て、私に電話を寄越し、
「名古屋の拓哉です。先生んとこ遊びに行っていいですか?」
割愛。
迫水久常秘書時代、全国の暴走族を集め『関東連合』を結成、最高顧問に。初代の総長の親が知り合いでしたが、その息子が私に「チーム同士喧嘩をしたくないので親睦団体を作りたい。先生が最高顧問で」と言ってきたのは、迫水久常という超大物議員の秘書の肩書があったことより、彼らは私なら「俺たちの気持ちを判ってくれる」と感じたのでしょうか。
私が最高顧問であったとき、彼らは街の暴走を止め、チーム同士の喧嘩も一切しなくなったのです。悪くなり、犯罪をやたら起こす、反グレ集団になったのは 私が警視庁のキャリア(自分で「警視総監になります。確実に」と公言。この後、激怒した私が警察庁長官と話し、クビに。これはいまでも語り草です)と大喧嘩し、手を退いてから、暴力団密接交際者のバーニングの周防侑雄のヤツが彼らにカネをばら撒き、ボディガードにし、六本木、西麻布にクラブや、バーを持たせ、アダルトビデオなどの会社を作らせてからです。
そして市川海老蔵暴行事件、六本木クラブ「フラワー」内での金属バット人違い殺人に堪りかけた私が,その時の警察庁の安藤隆春長官と話し合い、
「私にも責任があります。関東連合と怒羅権を準暴力団に指定してください」
と申し入れ、決まったのです。ですから、いまは「関東連合」「怒羅権」を名乗ると即逮捕されるようにしたのです。
あれから数十年後、これはあそみさんに話したことがありますが、近所の鉄工所の一番下の男児。オムツを着けた子が、テーブルを挟んで両親と話している私に、両親の前のテーブルに縋って私に近づき、テーブルの上にあった紙を私に見せて、ボールペンを手に、いきなり〇を20個くらい書き出したのです。ブドウの房ような形に、、、「うん?」。。。次は、三角をやはり20個くらい書き並べたのです。やはりブドウの房のように。。。
紙を手に取って見ると、〇も▼も線一つ一つが重なりあっていないんです。見事に線と線でつながり、とてもオムツで鼻垂らし子の絵≪図≫じゃないんです。私などマルを20個、三角を20個も続けて並べ書いたら、必ず5,6カ所重なります。
この子は自分の絵か何かを私に欲しかったんですね。両親では自分の事を判ってくれないと思ったのか。。。私は直ぐ見抜き、両親に、
「オイ、この子天才だぞ!!間違いない!!」
と。両親はまさかと信じません。そうですよね。まだ赤ちゃん言葉しか喋れない歳なんですから。それで何度も、
「この子を東京理科大のキャンパスにある展示場を観に連れて行きなさい」
と。約一か月後、その鉄工所に行くと、両親からは報告もないのに、その子がお兄ちゃんと手を繋いで立っていて、その子が私の顔を見ると、
「おもちろかった」
と報告。
そしてその子は今、小学生で「理工系が図抜けている」と父親が。。。先生が驚いて親に報告したようです。
最後です。オリコン時代(まだ二十代半ば)にプロダクション関係者には暴力団幹部もいたのですが、何故か、彼らは私を怖がっていました。後で知ったのですが、目が怖いと。暴力団金縛りになるんだと。
確かに私がジャーナリストの山岡俊介に、強引にYouTubeをやらせ、「アクセスジャーナル」に出演するために月一回、歌舞伎町のど真ん中を通り過ぎて山岡の事務所に向かうのですが、私がスーツにハンティングで歩くと、ビラ配りしているチンピラ連中が全員、後ろを向いて避けるんです。
一般の人や若者は怖がらないのに。これも不思議です。長くなりました。お詫びします。
東京の隣りに、カネをたっぷり貸している右翼の子分が、「老後を面倒みますから、銀座、赤坂で飲んでも千代田線に乗ったら一本ですよ」に騙されて。。。来たら犬と猫がいるためにどこもお断わり。漸く探したアパートに。ところが面倒見ると大口叩いた右翼の子分。二年後に地獄行き。
貸した金も返っていないのに葬儀委員長までやらされて、、、右翼、ヤクザがわんさか押しかけて。。。葬儀で私の顔を見た、あの少しおかしい桜田義孝衆議院議員のやつが、焼香の始まる前に、私に握手を求めて。。。「目立つから止めろ」と。。。ですから、今も親しいい人は一人もいません。これを孤立した独居老人というんでしょうね。
それが亀さん、あそみさんと知り合い、近所迷惑なほど元気老人になってしまいました。なんか、ますますヤル気になって勇気凛々老人に、、感謝感謝です。
正次郎拝
テーマ:とっておきの情報いろいろ - ジャンル:ニュース
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最近、何故今まで既知を得ることが無く、今、何故親交を結ぶ果報を得ているのか、実に不可思議に感じております。
正次郎先生の前半生、音楽界、政界、言論界と、私の興味ある分野で過ごされております。ご著書も多数出版され、マスコミにもご登壇なされておりました。しかし、大変ご無礼乍らどういう訳か、私は正次郎先生を存じ上げませんでした。誠に不思議です。音楽界、政界、言論界は興味の範疇であり、読書を疎んずる訳でもありませんので、理由が判りません。
背景に、年代が幾分違い活動時期に若干の乖離があること、ここ30数年殆どTVを見ることがなくなってしまったこと等があることは考えられますが、オウム事件は、リアルタイムで共有していた筈です。上祐氏の身元引受人が正次郎先生であったことを知らなかったことは、理解不能です。忘れているだけかどうか、ご著書やYouTubeのご尊顔を何度も見返しましたところ、やはり記憶に行き当たりません。芸能人に関しては、有名人でも私は全く知らないということは間々ある事で、興味が無いので不思議でも何でもなく普通の事です。しかし、正次郎先生を存じ上げなかったことは、不思議でなりません。一生の不覚です。
ネットサーフィンも時折やっており、昨年、正次郎先生のブログに行き着きました。実に遅い到着です(苦笑)
ネチズン歴は長く、80年代後半からチャット等に参加したりしておりましたが、95年頃からはROM(閲覧のみ)に徹していましたので、コメント投稿は NewsToday が初めてです。安倍総理の辞任予言の正確さに脱帽しての事ですが、投稿を忌避していたスタンスを、何故突然翻することにしたかは自分自身よく理解できていません。謎です(笑)
亀さんのコメントに触発された側面もあろうかと存じます。コメントを幾つか拝読して程なく「あの亀さん」であることに思い至りました。「人生は冥土までの暇潰し」という大言壮語(笑)且つ洒落たネーミングのブログ主の亀さんです。亀さんのブログも見覚えがあり、多分ここ数年、何度か訪問していたと存じます。造詣の深さに感銘を受けた記憶があります。
告白します(笑)
我が家も真言宗です。20代初頭、弘法大師に興味が湧き研究に勤しんだ頃、我が家が真言宗と知り驚きました。弘法大師への恋心、益々募ろうかというものです(笑)
正次郎先生と亀さんが真言宗所縁の方だと知り、2度目の驚きです。2月20日玉稿「亀さん、お詫びと怖い予言」でのカミングアウトも考えましたけれども、控えました。本日また弘法大師関連ご論稿です故、弘法大師のご采配かと解釈し、申し上げることとさせて頂きました。
空海が結び付けたという正次郎先生のお説、否定できません。
何故今まで既知を得ることが無く、今、何故親交を結ぶ果報を得ているのか、そこに答えがあるのかも知れません。亀さんと断金の交わりを頂くことに至っているのも、そこに真因があるのかも知れません。そうであるなら、何を望まれているのか、極めて重い命題が横たわっています。
私はこの歳にして、未だ書生気分です。何事に於いても未完未熟です。
唯々、正次郎先生と亀さんに同行させて頂きます。
あそみ拝