東大入学して知った「お金がないと、
1/3(日) 15:55配信
―[貧困東大生・布施川天馬]― 現役東大生の布施川天馬と申します。学生生活の傍ら、ライターとして受験に関する情報発信などをしています。 ⇒【写真】貧困東大生・布施川天馬
東大に入れたのは親の年収が高かったから?
先日、2ちゃんねるの元管理人であるひろゆき氏が『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』(三笠書房)という本の中で「東大生の多くが東大に入っているのは、本人の努力ではなく、親の年収が高かったからである」と述べられたのをご存じでしょうか?
インターネットの掲示板やTwitterなどのSNSを中心に物議をかもしました。現東大生はもちろん、東大レベルの大学にかつて通っていた人たちも心中穏やかでなかったであろうと察することができます。
ひろゆき氏曰く、「親の収入が高ければ、その世帯の子供には良い教育をうける機会が与えられ、良い大学に進学する確率が高まる。 すると、就職にも有利になり、高学歴高収入を手にいれ、良い結婚の機会も得られる。すると、その世帯の子供はやはり良い教育を受けられるようになり……」であり、無限ループが続くのだそうです。
「勉強にはお金がかかる」はまぎれもない事実
実はこれ、東大も同じことをいっています。去年の東大入試、国語の問題では「教育を通して社会的な階層が再生産されている」というテーマの文章が出題されました。
これもやはり簡単にいってしまえば、「金持ちの子は金持ちに、貧乏の子は貧乏になるのだ」ということにほかなりません。 僕自身、この主張に強く共感できます。
2020年に「お金がなくても勉強はできる」というテーマで『東大式節約勉強法』という本を書きましたが、これは「勉強をするのにお金はいらない」ということではありません。 お金があればよい教育が受けられるのは間違いありません。それでも「無課金でもある工夫をすれば一定の立ち回りはできますよ」ということを書いているのであって、お金があるに越したことはありません。 ではなぜ、お金がないと学力が下がるのでしょうか? そこには3つの重大な理由があります。
勉強をいかに「自分ごと」するかが重要
まず1つめの理由は、
「実体験の機会が減る」ということです。お金がないから、勉強につながるようなさまざまな機会を経験することができないのです。 この連載でこれまでに僕は「勉強になるゲーム」や「勉強になるマンガ」などを紹介してきましたが、これらはいわゆる「知育ゲーム」などではありません。むしろ、非常にメジャーなタイトルばかりをあげています。 なぜゲームやマンガが勉強になるのか? それはそうした娯楽を通して、「勉強につながるような意識」を喚起することができるからです。
勉強というのは、どれだけ「自分ごと化」できているかでそのモチベーションが変わってきます。 「滋賀県には琵琶湖という湖があります」、「横浜や長崎には中国人が多く住む中華街が作られました」などというような教科書の何げない記述に対して、どれだけ興味を持つことができるのかが問題なのです。
モチベーションは小さなきっかけで激変する
たとえば、あなたが北海道に住んでいたとして、道内から一歩も出たことがない、今後も旅行などで出る予定も一切ないというのであれば、「ふーん、そうなんだ」くらいで済んでしまうでしょう。 しかし、これらの場所に旅行したことがあったらどうでしょうか?
「琵琶湖って、以前、家族旅行で滋賀に行ったときに見たなぁ。あの海みたいに広い湖のことだよなぁ、広かったなぁ」「この前、横浜の中華街で中華バイキングを食べたけどおいしかったなぁ」といった経験があるだけで、これらの記述に対して感情が湧きます。 「ただの紙に書いてある退屈な知識」が「自分の思い出」と結びつくと、ただそれだけで子供の勉強に対する意欲というものは様変わりするのです。
中学受験が大学受験よりも過酷な理由
さらに2つめの理由として「教育への課金が減る」という点も挙げられます。 以前の記事でも伝えましたように、東大生の7割以上は中学受験を経験しています。東大合格者3000人のうちのほぼ半数は、いわゆる超難関進学校からの進学者であり、そのような学校の多くは私立中高一貫校であることを考えると、東大受験やそれに準ずる難関大学の受験において、中学受験経験の有無が重要なファクターになっていることは間違いありません。
しかし、難関中学校への入学は困難を極めます。なにしろ、中学校までは義務教育で、何もしなくても進学が約束されているのですから、わざわざ中学受験を志す子供たちの多くは普通の公立中学校よりもはるかに高いレベルの中学校を目指して受験しているわけです。
ですから、受験者たちも自然と頭がいい子ばかりになります。つまり中学受験の受験者層は同世代のなかでも「上澄み」であり、中学受験は高校受験や大学受験の難易度を凌駕する熾烈な戦いとなるわけです。
子供の教育に課金できる家庭は限られる
公立小学校でカリキュラム通りの内容を勉強しているだけでは難関中学校の試験問題には当然、対応できません。中学受験をするのであれば、早い段階からの塾通いがほぼ必須となります。
小学校4年生から有名進学塾へ通った場合、おおよそ200万円から300万円程度の支出は覚悟する必要があります。 つまり、最低限、それだけの金額を子供の教育の課金できなければ、中学受験という戦いに参加することすらできないのです。
「お金持ちになるインセンティブ」を知ることの重要性
そして、3つめの理由が「お金持ちになるインセンティブ、想像力がない」ということです。 突然ですが、あなたは毎朝起きたら近くの川まで生活用水を汲みに行くまで片道2時間以上を歩かなければならないような地域に住んでいる人々の生活が想像できるでしょうか? もしくは、年収がご自身の3倍も4倍もある人の暮らしぶりを想像できるでしょうか? なかなか難しいのではないかと思います。
「教育」が格差の再生産に拍車をかけている
大人の私たちにさえ難しいのですから、子供たちにそのような暮らしを想像させることはほとんど不可能に近いといっていいでしょう。 「貧乏である」という現状を認識できたとしても、お金持ちになることのメリットを感じ取ることすらできないのです。
だからこそ、貧乏な世帯に生まれた子供たちはなぜ自分は勉強しなければならないのか、勉強するとどうなるのかということすら実感をもって想像できず、格差の再生産が起きてしまうのです。 お金持ちの世帯に生まれた子供たちは、親世代の成功体験をもとに教育の重要性を痛いほどに理解しているというのに!
貧乏は「自己責任」にしてはいけない
私の周りでは、いわゆる「自己責任論」を支持するような風潮が強まっているように感じます。「貧乏なのは自分のせい」「学歴がないのは自分のせい」と、なんでもかんでもそうやって、「○○なのはお前のせいだ!」といえば、確かにラクでしょう。
しかし、すべての原因は本当に「自分のせい」なのでしょうか? もちろん、今の時代、腐るほど努力の機会はあります。少し手を伸ばせばだれにでも届くようなところにチャンスが転がっているような時代です。それでもそうした「チャンス」の存在に気づく人と気づけない人がいるのだとして、気づくことができなかった人を叩けるでしょうか。 果たして何でもかんでも自己責任としていいものか、僕にははなはだ疑問に思えます。
―[貧困東大生・布施川天馬]― 【布施川天馬】 1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』が発売中
㊟なかなか面白い分析です。確かに80歳近い私の子どもの頃も進学するのは数えるほどで、金持ちの家の子だけだったなぁ。
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