今も「競売物件」に住む“政界のゴロツキ”ハマコー未亡人の生き様!!
国会議員でありながらラスベガスのカジノで大金を失い(㊟この金はハマコーが敵対していた田中角栄元総理の最大の支援者で刎頚の友だった国際興業の小佐野賢治氏が立て替えてもらいながら平然としていた)、法務大臣を殴り、予算委員長時には問題発言で物議を醸した浜田幸一ことハマコー。
そしてば晩年、巨額の負債が明るみに出て詐欺容疑で逮捕(判決前に死去)された。そんなハマコーを陰で支え続けたのが寿美子夫人(80)だ。しかし、約60年の結婚生活で共に過ごした時間はわずか数年。そんな彼女が振り返る“政界の暴れん坊”との日々――。(週刊新潮より)
2年前、あの人はとうとう家へ帰ってきました。ずっと東京にいて、滅多に地元の千葉には帰ってこない人だったんです。でも体は満身創痍。精神的にも不安定で、自分一人で歩くこともできません。帰ってきてくれて嬉しいなんて感じる余裕もない。初めての夫婦水入らずは、私があの人の「介護士」になることでスタートしました。
私は1932年、大阪府に生まれました。敗戦直前に父が病死。48年に母の実家がある千葉県富津市に引っ越したんです。20歳で保育士として働き始めたんですが、保育園の隣があの人の家で、よく彼のお母さんが通りかかっていました。するとお母さんが私にあの人との縁談を持ちかけてきたんです。何度もお願いされて断り切れず、21歳で結婚しました。
あの人は28年生まれで、お父さんは地虫で地元の助役も務めていましたが、戦後に困窮、浜田本人も苦労して旧制中学から日本大学に進みます。しかし、大学は中退。あの人自身が後に公言するように”ヤクザ“だった時期もありました(㊟広域暴力団・稲川組のチンピラ)。私と結婚する前は刺傷事件を起こして実刑判決も受けています。
結婚してから、彼は政治家を志しますが、結婚生活は辛く苦しいことの連続でしたね。そもそも、彼には付き合っている女性がいたんです。でも親に言われて断り切れず、私と結婚したんでしょう。借金もありました。私は突然、別世界に放り込まれ、保育士を続けながら何とか家計をやりくりしていました。
あの人は町会議員から県会議員となり、その頃には家にいないことが多かったですね。生活費も滞りがち。とても不安でしたが、何より県議が地元にいないというのは支援者の方々に説明がつきません。少し生活が落ち着いてきたのは、彼が69年に国会議員になってから。ぎりぎりの額でしたけれど、生活費を毎月入れてくれるようになりました。
地元不在の言い訳も、代議士なんですから東京の事務所にいると言えばいい。自宅に女の人から電話がかかってくることもありましたけど、知らぬが仏と詮索はしない。全く帰ってこないくせに、彼は怒りだすと家に電話をかけてきました。
秘書や私に『お前はバカだ!この野郎!』と怒鳴り、気が済むと「じゃあな」と切ってしまう。何に腹を立てているのかすらも、さっぱりわかりません。
私は、あの人に認められる存在になろうと幸寿会という婦人部を設立しました。80年頃、彼がラスベガス出4億園以上負けたことが話題になった時期です。当時、後援会は婦人部が弱かった。次第に幸寿会が大きくなってくると、あの人も私を尊重してくれるようになりました。
ですから88年、彼が衆議院の予算院長になった時は、幸寿会でもお祝いをしなきゃと誰もが張りきっていたんです。でも予算員会で共産党の宮本さん(賢治・同党元名誉議長)について「宮本賢治は人殺し」と発言し、あっという間に辞めてしまった。
騒動が起きるたび「いつものことね」と思っていましたけど、何かあると取材の方がお見えになるでしょう。家を取り囲まれるのはやっぱり辛かったですね。
代議士引退は93年。糖尿病と肝硬変が悪化し、精神的にも問題が生じていたので、主治医が「政治家を続けるなら命の保証はしない」と仰ったんです。義弟と説得しましたが、あの人は散々ぐずりました。引退してからも私に、
「お前は、はじめから息子の靖一を代議士にしたかったんだろう」
と嫌味を言っていたくらいです。
でも政治評論家としてテレビに出演するようになり、離れて観ていると元気そうに映っていたので安心しました。
引退する数年前にはフランスとイタリアに10日間の旅行に出かけました。たった一度の旅行でしたが、彼が案内してくれて、私はついていくだけでよかった。気楽で、本当に楽しかった。友人は「人生、悪いことばかりじゃないでしょ」と言ってくれました。
詳しくは知りませんが、事業は何度も失敗したようです。騙されたことも少なくないと思います。
2010年に担保に差し出したはずの株券を勝手に売ったと背任容疑で逮捕された時は相当なショックを受けたようでした。
2年前に帰宅してからは精神面がすぐれず、「お母さんはどこに行った?」とすでに亡くなっている母親を探したりしていました。でも次第に元気を取り戻すようになり、熱心に国会中継を見ることもありましたし、ひ孫の姿を見られたのは本当に良かった。
回復していると思っていたんですが、12年8月5日の朝、浜田は眠るように息を引き取りました。死に顔は穏やかで、昔と全然違った。お葬式も、お別れの会も1000人ちょっとの方が来てくださいました。それにしても、あの人が逝ったと、まだ信じられません。ずっと東京に行っていたでしょう。だから今でも東京で元気に暮らしているんじゃあいかって。
弁護士さんにお任せしているので、今、借金がいくらになっているのか、私にも分かりません。債権者の方には申し訳ない気持ちで一杯ですが、千葉にあるこの60坪ほどの土地も家も競売にかけられています。住んでいられるのは単に買い手がついていないからで、次に住むところは決まっていません。
㊟故人の思い出として語らせているだけに、週刊新潮もあまり厳しいことを書いていない。が、ハマコーの生き様は永田町で褒める声はゼロ、どころか軽蔑、嘲笑する声がほとんどである。暴力団チンピラの経歴で同僚議員を脅し自民党の中で巾を利かせのし上がっただけ。故に大臣にもなれなかったのだ。
しかも、己の利権漁りを棚に上げ、田中角栄元総理を金権政治家と糾弾し続け、前述のように田中角栄の“刎頸の友”の小佐野賢治氏にラスベガスの負け金を支払ってもらいながら、感謝もせず、返済もしていない。でいながらその後も田中角栄を非難し続けた。もちろん、角栄元総理は虫けら扱いにもしなかったが。
千葉県のゴミ処理場建設事件、モンゴルの金鉱事件とハマコーの金権亡者振りは数え上げれば切りがないが、今も現実に目にする東京アクアライン建設ゴリ押しも、建設業者からの莫大な献金目当てであったことは多くの政治家も官僚も知っている。オープン当時の高額な通行料金に非難が轟々だった。これはあまりに建設費が嵩んだ結果、とても採算が取れないからだった。
それより、ハマコーは長く代議士として国民の税金でメシを食いながら、議員立法一つしていない。それだけの頭さえなかったということだ。千葉県人もこんな“埃”を誇りにしているのだから、“トロ”ウイルスに罹って12月解散をぶった野田ブタドジョウを生んだのだ。
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