高嶋ちさ子の父,弘之氏と親しかったんです!
高嶋ちさ子の父,弘之氏と親しかったんです!
10月3日の日テレ「一周回って…」を観て。。。
数年前、高嶋ちさ子さんを見て「あ、『うちの娘はバイオリンをやっていて…』」と高嶋弘之氏から聞いていたから、あ、この娘さんか、と思っていたが、まさかあんなキツイ娘さんだとは思わなかった。
何故なら、私が「オリコン」編集長時代、高嶋弘之氏は東芝レコードの洋楽課長だったかな。毎日、各レコード会社を回り、取材をしていた私。ある日、東芝に顔を出した時、加藤宣伝課長から高嶋氏を「俳優の高嶋忠夫氏の弟で洋楽課長」と紹介されたのが初対面。
ニコニコ顔でハンサムで背が高かった。それからは東芝に取材に行くたびに会話をするようになったが、高嶋氏は洋楽担当だけに歌謡曲の話とかはまったくなかったのに、常にニコニコ顔で20代そこそこの若造の私にも良くしてくれていた。
今思えば、私しか書けないオリコンの目玉で、発売前の新曲の「売れる曲、売れない曲」の的中率が100%で、動物的直感力は業界一の評価を得、ある種の氏かも歯に衣着せぬスターだった。しかも今と同じに言いたい放題を書いていた記事が好きだったようだ。
もちろん、高嶋氏に娘さんがいることなど知る由もなかった。ところがそれから数十年後、私がダイヤモンド社から『田中真紀子が翔ぶ』で物書きとしてデビュー直後、山手線の何処かの駅ホームで偶然再会。確か、高嶋氏は20代と思える綺麗な女性と一緒だった。
互いに再会を喜び、名刺交換の後、私が、
「とうとう物書きになってゃって」
と、カバンにあった処女作をプレゼントしたのだ。
すかさず高嶋氏は、
「何言ってんの。昔から物書きじゃないの」
と切り返し、大笑いに。
おっちょこちょいの私がそこで勘違いして、
「高嶋さん、若いですね。弟さんより若いじゃないの」
と言い出し、高嶋氏が、
「何言ってんの。向こうが兄ですよ」
と。またここで大笑い。その会話に高嶋氏の傍の女性も笑っていた。
互いにその場で別れて数日後、何かの事で高嶋氏に電話すると、
「うちの娘はバイオリンをやっていて…」と話し出したのだが、あのホームで一緒だった女性がちさ子さんだったような気がする。
それにしても84歳とは、、、しかも元気そのもの。まさまだ私も枯れる歳じゃない、と元気をもらった日でした。高嶋弘之さん、ちさ子さん、ありがとう。