石原くん、君が自民総裁!?そりゃ悪夢です!!自民党内の「金とポストと悪口」「石原伸晃」を「平成の明智光秀」とこき下ろす恨み骨髄!!(以下、週刊新潮を参考にしました)
―綺麗事ばかりでは権力など握れない。それにしても、あの豹変ぶりは拙かった。この3年間、谷垣総裁と二人三脚でやってきたはずの石原伸晃幹事長(55)が突如、
「谷垣さんを支えるために政治をやってきたわけではない」
と言い出したのだ。一体、何があったのか。
問題の石原発言が飛び出したのは、9月2日の講演会である。そもそも石原は、総裁選について「谷垣さんが出るなら応援したい」と語っていた。その言を信じるなら、再選への意欲を滲ませる谷垣総裁を支えるはずだった。それ故、
「手に平を返したような発言に対し、石原さんは党内で顰蹙を買っています」
そう話すのは、ある自民党関係者。
「石原さんは谷垣さんのお蔭で幹事長になったわけでしょう。野田総理を解散に追い込めない責任は、石原さんにもある。それらを棚に上げて、あの言い方はない」
谷垣側近議員は激怒し、中でも大島理森副総裁は、
「石原は、平成の明智光秀だ。許せん!」
と漏らした。
とはいえ、石原氏側にも言い分はある。
「石原さんは、本音でやる気満々です。前から、側近に“谷垣さんが出ようとも立候補すべき”と言われていたからね。そろそろ出馬の表明をしないと!“まずい”と焦ったのでしょう」(政治部記者)
谷垣総裁をヨイシょしつつ、平身低頭、私も立候補させてもらいたい、それなら問題なかったのに、これででは敵を作るばかりである。
出来レース!
「いや、石原は計算ずく。森(喜朗)さんや古賀(誠)さんと組んで、谷垣さんを追い詰める謀略を仕掛けたと囁かれています」
とは、先の自民党関係者。
「8月31日、谷垣さんは石原さんに総裁選での支援を要請。それに対し、石原さんは、先ず派閥(宏池会)会長の古賀さんの支持を取り付けたほうがいいとアドバイスした。実は、これ、石原さんと古賀さんが、谷垣再選を阻止するため仕組んだ出来レースと見られています」
石原は町老連中のご機嫌取りに余念がなく、彼らの覚えがめでたい。長老にすれば、石原は自民党総裁になるのがベストである。
「谷垣さんは、物事を決めるのにも取り巻きしか相談せず、古賀さんらを無視してきた。おかげで、古賀さんは“谷垣は、俺の言うことを聞かない”とおかんむりでした。古賀さんに支援を断られれれ場、谷垣さあんは窮地に追い込まれる。石原さんは、古賀さんの所へ行くよう仕向けたのdす」(同)
古賀―谷垣会談が開かれたのは9月3日。予想通り、古賀氏はあっさり谷垣氏からの支援要を断った。
「森さんも2日には、谷垣さんへの支持を撤回。いきなり梯子を外した。これも、谷垣再選阻止、石原支援の仕掛けのひとつでしょう」(先の政治部記者)
手のひら返しの発言はさすがにまずいと思ったのか、石原は4日、谷岳総裁に陳謝した。今更、そのツラ下げて詫びたのやら。(この記事を読まれた方は、次の記事、「谷垣氏は某人物“K”に脅迫され立候補辞退したをお読みください。自民党にはこの体質が未だ残っているのです。こんな男にペコペコする石原がまともな政治をできるはずがない!)
ああ、“キネマの灯”が消える「浅草六区」栄枯盛衰・・・
かつて殷賑を極めた繁華街、通称浅草六区から”娯楽の王様“キネマの灯が消えようとしている。現在六区に残る浅草中映劇場、浅草名画座などの映画館5館が9月から10月にかけて順次閉館するからだ。
「5館が入る建物が築80年を超えて老朽化しており、閉館して取り戻すことにしました」(5館を運営する中映の親会社・松竹)
浅草公園として整備された浅草寺の寺域に、演劇やオペラなどの興業施設が集まったのが六区の始まり。
1903年には日本初の常設映画館「電気館」が誕生し、六区は“映画館発祥の地”となった。
「観客動員数がピークを迎える前の1953年には、六区だけで17もの映画館がありました」(日本映画史研究家の朝倉史明氏)
ご当地からは、軽演劇などで活躍した榎本健一、古川緑波、渥美清といった映画スターも生み出した。
「絶頂期には、浅草の俳優さんや芸人さんに、各映画館がフリーパスを発行していた。彼らは楽しみと勉強のために映画をよく見たものでした」(芸能関係者)
が、都内には歓楽街が増え、テレビの普及もあって、65年頃から映画も浅草六区も斜陽の時を迎える。
2006年に浅草東宝が閉館して封切館が消え、残ったのは名画座とピンク映画館だけだった。
「跡地は5階建てのビルになって、3階までがパチンコ店、その上はホールになるらしいよ」
と語る地元商店主が、サバサバとした口調で続けた。
「今ごろ騒いでもしょうがねぇ。せめて名画座付きのシネコンでも来てくれればいいんだけどねぇ